約 764,551 件
https://w.atwiki.jp/ryuunabe/pages/53.html
竜士隊 アイドレスWiKiの該当ページ 名称:・竜士隊(職業) 要点:・剣形銃・紋章エプロン・洒落た帽子 周辺環境:・宮廷 評価:・体格(評価1)・筋力(評価1)・耐久力(評価1)・外見(評価1)・敏捷(評価2)・器用(評価1)・感覚(評価1)・知識(評価-1)・幸運(評価0) 特殊: *竜士隊の職業カテゴリは派生職業アイドレスとして扱う。 *竜士隊は白兵戦行為が出来る。この時、選択によって白兵戦の攻撃判定は評価+2出来る。補正を選択した時は燃料2万tを必ず消費する。 *竜士隊は近距離戦行為ができ、この時、選択によって近距離戦の攻撃判定は評価+2出来る。補正を選択した時は燃料2万tを必ず消費する。 *銃士隊は中距離戦行為ができ、この時、選択によって中距離戦の攻撃判定は評価+2)出来る。補正を選択した時は燃料2万tを必ず消費する。 備考: →次のアイドレス:ユウタ(ACE)、フランク=ヤガミ(ACE)、皆の為に皆は一人の為に(絶技) 、I=D・ドラゴンの開発(イベント) コメント 白・近・中での戦闘で補正選択可能なのはいいネ。次のドラゴンの開発は……竜をとうとう扱うんだろうか? ……ところでACEヤガミ多すぎだねぇ おまけ 派生元リスト 銃士隊→その前犬妖精
https://w.atwiki.jp/naniwaarms/pages/134.html
アメショー L:アメショー = { t:名称 = 01 アメショー(乗り物) t:評価 = 体格10,筋力11,耐久力14,外見8,敏捷11,器用5,感覚11,知識5,幸運6 t:特殊 = { *アメショーの乗り物カテゴリ = I=D,戦車として扱う。 *アメショーは白兵戦行為ができ、この時、白兵戦の攻撃判定は評価+2される。 *アメショーは近距離戦闘行為ができ、この時、近距離戦闘の攻撃判定は評価+1される。燃料を1万t消費する。 *アメショーは遠距離戦闘行為ができ、この時、遠距離戦闘の攻撃判定は評価+1される。燃料を1万t消費する。 *アメショーは戦闘時に1機につき燃料2万tを使用する。 *アメショーは戦闘時に1機につき資源1万tを使用する。 *アメショーはパイロットの他、コパイロット2名を必要とする。 *アメショーの人機数 = 5人機として扱う。 *アメショーのアタックランク = ARは15として扱う。 } t:→次のアイドレス = I=D・ペルシャの開発(イベント),I=D・ミケの開発(イベント) } http //ginbar-net.hp.infoseek.co.jp/apr/id.htm テクニカルリードアウト http //blog.tendice.jp/200701/article_34.html
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1224.html
沖縄タイムス社説2008年3月29日 http //s03.megalodon.jp/2008-0329-1233-40/www.okinawatimes.co.jp/edi/20080329.html [「集団自決」訴訟]史実に沿う穏当な判断 日本軍の関与を認める 座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決(強制集団死)」に旧日本軍はどのように関与したのか。戦隊長の自決命令はあったのか、なかったのか。沖縄戦の「集団自決」をめぐる史実論争に初めて、司法の判断が示された。 判決は、体験者の証言を踏まえた穏当な内容であり、今後この問題を考える上で里程標になるだろう。 ノーベル賞作家の大江健三郎さんの著作「沖縄ノート」などの中で集団自決を命じたように書かれ、名誉を傷つけられた、として元戦隊長と遺族が大江健三郎さんと出版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決で、大阪地裁の深見敏正裁判長は、請求を棄却した。 判決は、戦隊長による自決命令について「伝達経路が判然とせず、(あったと認定するには)ちゅうちょを禁じえない」と指摘した。 戦隊長命令の存在までは断定しなかったものの、「日本軍が深くかかわった」と認定。戦隊長が「集団自決に関与したことは十分に推認できる」との判断を示した。 また、大江さんらの著述について「真実であると信じる相当の理由があった」ことを認め、名誉棄損に当たらないと結論付けた。 今回の判決でもう一つ注目したいのは、体験者の証言の重みを理解し、さまざまな証言や資料から、島空間で起きた悲劇の因果関係を解きほぐそうと試みた点だ。 一九八二年の教科書検定で文部省(当時)は、日本軍による住民殺害の記述にクレームをつけ修正を求めた。記述の根拠となった「沖縄県史」について「体験談を集めたもので研究書ではない」というのが文部省の言い分だった。あしき文書主義というほかない。 文書は貴重な歴史資料である。だが、文書だけに頼って沖縄戦の実相に迫ることはできない。軍の命令はしばしば、口頭で上から下に伝達されており、命令文書がないからと言って自決命令がなかったとは言い切れない。 今回の判決は、沖縄戦研究者が膨大な聞き取りや文書資料の解読を基に築き上げた「集団自決」をめぐる定説を踏まえた内容だといえるだろう。 「住民殺害」も根は一つ 戦後世代の私たちは、ごく普通に「集団自決」という言葉を使う。だが、この言葉は戦後に流布したもので、沖縄戦の際、住民の間で一般に使われていたのは「玉砕」という言葉である。 座間味でも渡嘉敷でも、島の人たちは、折に触れて幾度となく「米軍が上陸したら捕虜になる前に玉砕せよ」と軍から聞かされてきた。 「軍官民共生共死」―軍はそのような死生観を住民にも植え付け、投降を許さなかった。部隊の配置など軍内部の機密がもれることを心配したのである。日本軍がどれほど防諜に神経をとがらせていたかは、陣中日誌などで明らかだ。 実際、米軍への投降を呼び掛けたためにスパイと見なされて殺害されたり、投降途中に背後から狙撃されて犠牲になった人たちが少なくない。 「集団自決」と「日本軍による住民殺害」は、実は、同じ一つの根から出たものだ。 座間味や渡嘉敷では、住民に手りゅう弾が手渡されていたことが複数の体験者の証言で明らかになっている。今回の判決もその事実を重視し、軍の関与を認定した。「沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯し、日本軍のいなかった渡嘉敷村の前島では集団自決は発生していない」とも判決は指摘している。 犠牲者と向き合えるか 大江健三郎さんの「沖縄ノート」が発行されたのは復帰前の一九七〇年のことである。なぜ、今ごろになって訴訟が提起されたのだろうか。私たちはここに、昨年の教科書検定と今回の訴訟の政治的つながりを感じないわけにはいかない。 高校教科書の検定作業真っ盛りの昨年八月、安倍晋三前首相の側近議員が講演で「自虐史観は官邸のチェックで改めさせる」と発言したという。文部科学省の教科書調査官は、係争中の今回の訴訟を引き合いに出して軍の強制を否定し、記述の修正を求めた。昨年の検定が行き過ぎた検定であったことは、判決でも明らかだと思う。 ところで、名誉回復を求めて提訴した元戦隊長や遺族は、黙して語らない「集団自決」の犠牲者にどのように向き合おうとしているのだろうか。今回の訴訟で気になるのはその点である。 大阪地裁判決に対する各紙論評など
https://w.atwiki.jp/staff-officer/pages/106.html
どう考えても男女共同参画予算は廃止するべきだと思う件! 捏造詐欺からできた男女共同参画予算は反日勢力への資金源 ご主人様とメイドの関係 あなたが生きづらいのは理由(わけ)がある?!なんとなく、生きづらいな、と感じていませんか? それは、「ご主人様とメイドの関係」が知らず知らずにあなたを支配しているからかも知れません。繊細な感性で女性やこどもを描いてきた漫画家の石坂啓さんに、日常に潜む見えないカラクリについてお話いただきます。 11/15(木)18:30 ◆会場:札幌市男女共同参画センターエルプラザ(札幌市北区北8条西3丁目 ) ◆参加費:予約・前売1000円 当日1200円 ◆申込: TEL/FAX011-711-1910 (12~18時)日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会 ← www ◆主催:札幌市男女共同参画センター ← www アウト http //megalodon.jp/2013-0416-0115-28/saponet.jimdo.com/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC/2012%E5%B9%B411%E6%9C%88/ 辛淑玉(しんすご)さん講演会 日時:1月26日(土) 14:00~16:00(開場 13:30) 会場:札幌市男女共同参画センター(エルプラザ)3階ホール 札幌市男女共同参画センター「男女共同参画活動団体企画事業」 企画・実施団体:日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会 お申込み・お問合せ: TEL/FAX:011-711-1910 (12~18時) http //megalodon.jp/2013-0421-1957-28/ianfukaiketsu-hokkaido.jimdo.com/ 札幌市男女共同参画センター「男女共同参画活動団体企画事業」 【みんなで学ぼう女性への暴力~平和とジェンダー~】 その日、私に起きたことー女たちの過去・いま・未来を考える連続講座ー ①11月15日(木)18:30~21:00 3階ホール 予約・前売1000円 当日1200円 石坂啓さん講演会「ご主人様とメイドの関係」 〔好評のうちに終了しました〕 ②11月18日(日) 14:00~2階会議室1・2 限定50名・要予約 予約・前売1000円 当日1200円 安世鴻(あんせほん)さん講演会 「中国に置き去りにされた朝鮮人元日本軍「慰安婦」を追って」 〔好評のうちに終了しました〕 ③12月8日(土) 14:00~ 札幌エルプラザ公共4施設 2階会議室1・2 予約・前売500円 当日700円 「“慰安婦”問題ってなに?」 講師・金時江 ⑤2月9日(土) 3階ホール 予約・前売500円 当日700円 ドキュメンタリー「ナヌムの家」上映会 ①10:00 ②14:00 ③18:00 ビョン・ヨンジュ監督・1996年作・98分 企画・実施団体:日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会 大阪府警による日本軍「慰安婦」問題解決運動への弾圧に抗議します! 2月22日 大阪府警への抗議文提出行動 【抗議への賛同団体】 日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会 ← www http //megalodon.jp/2013-0416-0121-40/www.ianfu-kansai-net.org/kougi_fukei.html 韓国水曜デモ1000回アクション 賛同団体(2011年12月14日現在 273団体) 日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会 ← www http //megalodon.jp/2013-0416-0127-29/blog.livedoor.jp/aryasarasvati-subdrawer/archives/24180293.html
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2596.html
http //mainichi.jp/area/osaka/news/20100212ddlk27040230000c.html 講演:「証言 沖縄戦の日本兵」 国森康弘さん、集団自決をテーマに--豊中 /大阪 建国記念日の11日、豊中市野田町の市ローズ文化ホールで、フォトジャーナリストの国森康弘さん(35)が「証言 沖縄戦の日本兵」と題して講演した。住民の集団自決について日本軍の関与を指摘。「環境、立場が変われば人は加害行為を起こしてしまう」と戦争の恐ろしさを訴えた。 豊能地区教職員組合協議会の主催。平和と人権を考えようと、72年から毎年開催しており、今年で39回目。今年は、米軍の普天間飛行場の移転が問題になっていることから、アジアの戦場や沖縄での取材経験がある国森さんが講演した。 国森さんは、阿嘉島、座間味島など沖縄諸島や本島の住民、現地に派兵された元日本兵の証言を、写真を交えながら紹介。「集団自決は日本軍が駐留しなかった島では起こっておらず、この事実は重い」と話した。講演には350人が訪れ、7歳のめいが「早く首をくくって死のうとせがんでいた」とする女性の証言の話などに、じっと聴き入っていた。【山口朋辰】 毎日新聞 2010年2月12日 地方版 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/7156.html
642: 名無しさん :2021/06/06(日) 13 21 18 HOST sp1-79-82-160.msb.spmode.ne.jp 樺太県 鉾部 間宮海峡、樺太と大陸の再狭部の沿岸部には、多数の歩兵や戦車、ヘリが集結している。その後方には集積された大量の物資。 彼らは列を成し、沿岸に並ぶエアクッション揚陸艇に乗り込んでいる。 その上空には日本空軍の作戦機が多数、編隊を組んで広大なロシアの大陸を目指して飛んでいく。 北方に展開する陸、海、空軍、海兵隊から編成された日本軍ロシア方面軍団。 陸上戦力として機甲師団を含む5個師団45000人。 航空戦力は大型無人攻撃機や戦略爆撃機を含む作戦機約600機。 海上には、海軍第2艦隊から揚陸艦とその護衛、地上支援用艦艇を抽出した第21任務部隊。 目標は只一つ。 「ウラル以東に存在するロシア軍戦力の破壊」 それを以て、日本領沿海州ひいては本土の安全を確保することにある。 場合によってはエカテリンブルクの辺りまで進出する事を想定している為か、精鋭たる第7機甲師団を始めとした陸戦のプロフェッショナルで固められている前線部隊には、増強された兵站部隊を始めとする潤沢な後方部隊が付属している。 戦いは空から始まった。 ロシア奥深くへと突き進んでいく日本海軍の巡航ミサイルを傍目に、日露両国の航空戦力が極東の空で合いまみえる。 とは言っても、極東に展開するロシア空軍の半数は、電子戦能力で圧倒する日本空軍によって目と耳を奪われた末に蹂躙され、もう半数は飛び立つ前に地上で破壊されていたのだが。 「日本軍の攻撃です!避難を!」 ハバロフスクに存在するロシア軍東部軍管区地区本部にも、その攻撃は及びつつあった。 超音速の巡航ミサイルと、正確で疲れ知らずなコンピュータによって低空高速侵入を果たした大型無人攻撃機によって、ハバロフスク周辺に展開するレーダーや対空ミサイルなどの防空兵器が次々と破壊されていっている。 これに使用された大型UAV「火龍」は、中国方面へと大量投入された安価なモノとは一線を画す高性能機であり、搭載量や機体性能は一線級の有人戦闘爆撃機に匹敵する。 「レーダーロスト!くそっ、近隣の陸軍部隊とも連絡が取れません!」 「伝令を出せ!!仕舞ってある対空火器でもなんでも良いから出させるんだ!!」 その言葉を遮るように、市内の守りを固めていた筈のS-300防空システムのミサイル車輌とレーダー車輌が、火龍の放った空対地ミサイルによって爆発炎上する。 「参謀本部より通信です!」 「何!?よし、貸せ!」 中央との通信機能がまだ生きていたことに驚きつつも、受話器を受け止る。 『日本による攻撃が始まったと聞いたが、状況はどうなっているのだ?』 「日本による大規模な航空攻撃が行われています!この様子では地上軍による攻勢も近いかと……」 『現地戦力での対抗は────』 突然通話にノイズが走ると、それっきり受話器の相手は反応しなくなった。 「閣下?……参謀総長閣下!?くそっ!」 同時に行われていた高高度極超音速爆撃機「飛龍」の投下した滑空誘導爆弾が、モスクワ中央区の参謀本部ビルに直撃したからだ。 そして数分後、防空システムの壊滅と同時にこの地区本部も、誘導爆弾の直撃を受けて司令部ごと消し飛んだのだった。 643: 名無しさん :2021/06/06(日) 13 23 55 HOST sp1-79-82-160.msb.spmode.ne.jp 日本軍の揚陸艇が砂浜に乗り上げる。 開放されたランプドアからは勢い良く歩兵と戦車が飛び出し、素早く展開していく。 多大な被害が出やすい上陸作戦だが、この時、ロシア軍将兵は日本軍の上陸を阻止する所か、目にする事も叶わなかった。 上空を飛び回るヘリや攻撃機、沖に待機している海軍艦艇が上陸の妨げとなりうるロシア軍戦力を歩兵の一人に至るまで、高性能な赤外線センサーやレーダーによって残らず狩り尽くした為である。 ラザレフ近郊に上陸した日本軍は素早く橋頭堡を確保すると、一息にアムール川東岸まで進出。 この動きに対して、空爆によって混乱を極めたロシア軍に能動的な対処は不可能であり、その混乱を尻目に日本軍はアムール川沿いにハバロフスクを目指し南下を始めた。 「目標空域に到達しました、今管制機から情報が…来ました。この先に移動中の敵自動車化師団」 「よし、ブリーフィング通りだな。爆撃手、準備はいいか?」 「目標指示器異常なし、いつでも行けます」 上空、敵航空戦力の居なくなった極東ロシアの空を、比較的低速で悠々と飛行しているのは日本空軍の戦略爆撃機「呑龍」だ。 4発のターボファンエンジンを搭載し長い後退翼を持つそれは、見る人が見ればB-1Bを彷彿とさせる外見の亜音速爆撃機。 制式採用から長い年月が経っているものの、高い信頼性から改良型が未だに実戦配備されている長寿兵器である。 そして、その腹には目標指示ポッドと共に、大量の誘導爆弾を抱えていた。 ──────── 「畜生!何でこうなるんだ!」 極東に展開していたロシア陸軍の自動車化歩兵部隊は、日本空軍の容赦無い爆撃を受けて既に半壊状態へと陥っていた。 「車から離れろ!巻き込まれる!!」 無防備に路上を走っていたBTR装甲車が、誘導爆弾の直撃を受けて爆散する。 日本の空爆は周到であり、ECMによって目と耳を封じられた所で真っ先に野戦レーダーと対空車輌が消し飛び、その後は上空にぴったり張り付いた爆撃機から降ってくる爆弾によって、目立つ車輌が片っ端から破壊されていた。 一方、地上ではデ=カストリ~マリインスコエを繋ぐラインまで進出した日本陸軍が、空爆を受けて敗走するロシア軍と接触する。 「くそっ、生き残りはこれだけか……!」 「他とは連絡が取れません……或は全滅したのかも」 ロシア軍の僅かに残った戦力は、近隣の市街地を目指して後退していた。 マリインスコエ前面まで逃げ延びたこの部隊も、アムール川に面したここに追い込まれ、いよいよ以て逃げることは叶わなくなった。 日本陸軍が進攻してきていることは確実だが、どこまで来ているのかは分からない。 しかし、偵察に出た部隊が戻って来ないことからも、近くまで来ている事は明らかだった。 「見張りを怠るなよ…奴等は必ず来る」 街道近くの家屋の一つに隠れ、対戦車ミサイルを設置し待ち伏せの用意をするロシア軍歩兵。 「もし来たら、ありったけのロケットを浴びせてから逃げるんだ」 周辺は鬱蒼と繁った森林であり、よほど地元に慣れている人間でも無い限り、車輌を含む部隊が移動するにはこの道を使うしか無い。 「祖国の土を踏んだ事を後悔させてやる……」 その時、静かに戦意を高めていたロシア兵の目の前に、小型のドローンが現れる。 「なんだ…?」 何かしらの小型の機器を積んだそれと、室内に隠れたロシア兵の目が合った。 ドローンにはそれと分かる目など無い筈だが、確実にそう言えるだけの確信があったのだ。 ドローンはいきなり上昇し始め、遠くへ逃げ出す。 それは、日本軍が来ていると思しき方向だ。 「不味い…逃げ──」 言葉を発する間もなく、潜んでいたロシア兵達は家屋ごと猛烈な爆発に巻き込まれて消し飛んだ。 その近く、森林内に身を隠していた歩兵の一団。 その先頭に居る一人が、帰って来たドローンを回収する。 その後ろでは、パワーアシストスーツを装着し、他国では車載用に分類される自動擲弾銃を構えて立っているのだった。 644: 名無しさん :2021/06/06(日) 13 27 23 HOST sp1-79-82-160.msb.spmode.ne.jp 今回分の投下は完了です。 なかなか更新できずに申し訳ない…
https://w.atwiki.jp/ngso/pages/60.html
作戦 【I=D】 アメショーは白兵戦行為ができ、この時、白兵戦の攻撃判定は×2.25(評価2)される。 即応セットを利用した戦闘を行う 【WD煌月】 手榴弾:拠点制圧や目くらまし、トラップ等用途の多い装備である。通常の破片手榴弾を始め閃光手榴弾や音響手榴弾、対装甲の粘着手榴弾にジャミング手榴弾などがある。 ウォーアクス:戦闘だけではなく陣地構築や攻城にも役に立つ 超振動大太刀:刃物としての鋭さと超振動を利用してあらゆるものを切断する。 ジャンプロケット:迅速な移動、襲撃を可能にするためのジャンプロケット。これによってビルの上への到達、直線距離での移動などの特殊な機動が可能になる。重量があるために着脱が容易になっている。 シールド:白兵戦はもとより砲戦での目隠し(中央部のパーツを外すことによって銃眼が現れる)、簡易的な陣地の構築、裏面への予備弾装の装着などに使える。 A.白兵装備 ・超振動大太刀(もしくはウォーアクス)・シールド・7.9mm機関銃 →砲兵の支援を受けて敵小型ユニットと白兵戦闘を行うためのユニット。 ジャンプロケットを併用してヒットアンドアウェイの戦法を取るのもいいだろう。 最前線での戦闘となるので、支援と連携は必須。 C.戦車随伴歩兵装備 ・7.9mm機関銃(もしくは対戦車ライフル、長砲身キャノン)・超振動大太刀・シーカー・ジャンプロケット →I=D支援ユニット。I=Dの弱点である足元の敵の掃討を目的とする。 機動性をある程度犠牲にしても火力と柔軟性を重視する。 状況によっては(見通しが悪いなど)I=Dに先行して偵察を行う場合もある。 D.突入・救出戦装備 ・7.9mm機関銃・手榴弾・シーカー・超振動大太刀・ジャンプロケット →拠点制圧や救出・突入作戦に特化したユニット。 敵の撃破を目的としないため大型の火器は持たず、機関銃と手榴弾を中心に戦闘と制圧を行う。 目的を遂げ次第ジャンプロケットで脱出する。 E.偵察装備 ・手榴弾・シーカー・ジャンプロケット →偵察ユニット。武装は最低限であり、シーカーと本部の中継も行う。 基本的に戦闘は行わず、偵察失敗時には各種手榴弾やジャンプロケットを利用して離脱。 煌月の柔軟性と瞬発力を最大限活かすことになるユニットである。 F.空間偵察装備:ケルノ 生命維持装置や全周囲センサーの最低限の活動装備と防衛装備と電子戦装備を装備する。 全体の重心を背中にずらし、その部分に推力システムを集中させることにより、バランスを取る。 兵装は反動の無い専用のレーザーライフルを一丁装備する。 やら必要なものをもりもりと突っ込んでしまったためにこうなってしまったのだ。嗚呼無常。 G.ディープストライカーパック 敵陣への強襲戦のために機動力と火力を備えた装備。 4本の増加燃料タンクは合計10分もの連続噴射時間を備え、短時間での長距離侵攻が可能。 さらに背に二門搭載された50mm機関砲を撃てる。 一方、防御面では両肩と胴体に取り付けられた増加装甲エプロンによる防護性能の向上。 両肩の装甲の裏に隠されたフレア・チャフの発射装置は敵の対空ミサイルに対する回避に用い、突撃時の被弾率を下げている。 ウォードレスコネクタによる姿勢制御は可能 ―兵装― 50mm機関砲×2(両弾装に10発) チャフ・ディスペンサー(10発) フレア・ディスペンサー(10発) 【陣形】 敵に対して多数で攻撃することを前提とし、敵1体に2人以上で攻撃できるようにポジションをとる。 敵に後ろを取られないように味方同士でお互いに背中を守る。 攻撃班は可能なら友軍の攻撃から隠れている敵を側面、背面から奇襲する。 【装備】 銃身やヘルメット、戦闘用の靴などの装備用品を武器として利用する。 即席の武器としてシャベルや棒、ロープ、砂や岩を利用する。 ナイフやソードなどの刀剣類で突きや斬撃を行う。 装備している物が体の動きを制限したり、身軽さや素早さを低下させないよう配慮する 障害物越しの敵や屋内の敵に対しては各種手榴弾を使用する 【体術】 フェイントを交えて相手の防御を崩してから攻撃する。 相手の目線、体捌き、ポジションから間合いや攻撃のタイミングをはかる。 目や鼻、こめかみ、あご、首、喉、鳩尾を狙って攻撃する。 アラダやチル、オズルの目を積極的に狙い、突いたり目潰しする。 攻防の流れの中で相手の無防備な部分を見極めて肘や膝で打つ。 相手の懐に飛び込む際は防御を意識しつつ相手の急所を狙って突く。 相手が飛び込んできた際は体全体を攻撃線からはずして防御する。 相手の打撃が来た場合、銃や杖、刀など手持ちの装備を使って防御する。 相手の攻撃の軌道を見極め、上段・中段・下段受けを状況によって使い分ける。 攻撃を受けた際は相手の近くから離脱するか、攻撃を続行するかを選択する。 反撃の際は防御したら即座に突く、蹴る、打つなどして攻撃する。 初撃で相手の動きを止めた後、続けて突き・蹴りなどで攻撃を続ける。 基本的な攻撃の技術を応用し、連続して技を繰り出すようにする。 相手が前に進んでくる勢いを利用し、脚を払ってバランスを崩し、次の攻撃につなげる。 力がない者は敏捷性・スピード・タイミング・バランス感覚を最大限に利用する。 単純なスピードだけでなく、攻守のタイミングを常に意識する。 一度に倒しきれないほど多数の敵は、前衛の負荷を超えない範囲で、少しずつおびき出して倒す。 打突に体重を乗せるためには脇を締め、腰の回転を意識する 力みすぎないよう心がける(動きに柔軟性がなくなるから) 相手の勢いを意識する 相手との間合いを意識する 自分にとってベストの間合いで戦うことを意識する 決めたと思っても気を抜かない 打撃を行うさい、姿勢が崩れるほどの体重をかけないこと (体が流れるため、打ち終わりに自分の姿勢が崩れるため) 即座に行動できるよう自身の姿勢を意識し、常に維持すること 打撃は、相手に当たったらすぐに引く(姿勢維持と打撃力が上がるという効果がある) 合図を使って連携して動く ターゲットの選定は武術の心得がある者が行う 状況によってアッパーカットや手刀、拳槌、肘打ち、膝蹴りを使い分ける。 突く際は全体重を乗せて、相手の体の向こう側を意識して打ち抜く。 状況に応じて横蹴り、前蹴り、回し蹴りなど蹴りの種類を変える 回し蹴りを打つ際は脚、膝、腰の力を利用し、上半身でバランスをとりながら相手に全体重を叩き込む。 蹴るときは踵、つま先、脛など状況によって蹴りに使う部分を変える。 打撃の種類 基本突き:脇を絞り、真っ直ぐ拳を突き出す。上半身の力だけでなく体重移動や腰の回転を意識し体重をかけて打つ。 上段突き:胸やノド、頭部を狙う。頭部は特に目、鼻、こめかみ、あごなど急所が集中しているので効果が高い。 中段突き:相手の胴体のど真ん中=鳩尾を中心に狙う。鳩尾にまともに打撃が入ると内臓へ衝撃が伝わって立っていられなくなる。 裏拳:手の甲でスナップを利かせて打つ。顔面など比較的もろい部分を狙う。 拳槌:握った拳を振り下ろしたり、体を回転させるようにして打つ。 肘打ち:人体の中でも硬い肘を使い、相手を打つ。全体重をかけて相手の弱い部分を狙う。 上段蹴り:下半身のばねを使って脚を振り上げ、上半身のバランスをとりながら相手の頭部を蹴る。 中段蹴り:相手のわき腹、みぞおちを狙う蹴り。相手の状況で前蹴りや回し蹴りを使い分ける。 下段蹴り:膝や足の甲を使って相手の太もも周辺めがけて蹴りこむ。足をつぶして立てなくしたり、素早さを封じたりできる。 前蹴り:片足を上げて抱え込み、体重を乗せて真っ直ぐ蹴りこむ。 CQCに属する現代の戦闘技術(フェアバーン・システム、無音殺傷、クラヴ・マガetc)を応用する 武器を振り回すため、しっかりとした足場を立ち回れるようにする。砂の斜面等は避ける ナイフや刀剣で攻撃するときは攻撃角を意識し、上下左右斜めに斬ったり最短距離で突く。 自分の獲物のもっともダメージ与えられる間合いを確保する 多くの数を相手にするために、刃が切れなくなるのを防ぐため斬るより突き刺すのメインにする 斬撃の種類 唐竹割り:まっすぐ振り下ろして斬る。 袈裟斬り:刀剣を斜め上から敵の体に振り下ろして斬る。 水平斬り:刀剣を横水平に切り払って敵を斬る。 刺突:敵の胴体真ん中を狙い、まっすぐ突く。する時は刃を寝かせて(横にして)行う。そうすると、骨に当たらずに貫ける 大型で両刃の剣は振るときに両手で持って自分に刃が当たらないようにする。 刃の重みを使って叩き切るように使う。 重さに振り回されて手首や肩の関節を痛めないように振るう範囲をきちんと決めて振るう。 構えは半身で行い。敵の正面に晒す面積を少なくする。 上段から振り下ろす時は地面に刃を当てないように注意する。 棒状の武器は全体重を乗せて突き、払い、スナップを利かせて打つようにする。 戦闘時は声を出さないこと(叫んだりしない)。ただし、要救助者への呼びかけや、緊急の事態はこの限りではない。 隠れつつ展開。敵集団内に煙幕弾を投じて距離を詰める 少数であっても、戦闘時には敵より多い数で攻撃できるよう、連携を密にとりゲリラ的に撃破。 SS・イラスト WD IMG_000332.jpg IMG_000331.jpg IMG_000327.jpg 42.jpg 40.gif アメショー 1799.jpg RP類
https://w.atwiki.jp/coh00/pages/295.html
サテライト社製VMAブレードピクシー スカイアイ 概要 正式名称:サテライト・ホープ社製多目的機動兵装ブレードピクシー 兵器種別:多目的機動兵装(二脚) 製造年:西暦2132年~ 兵装: 12.7mm機銃 グレネードランチャー 60mmハンドレールガン 試作型レーザーソード メガスレイヤーHMS 備考: 地球連盟軍の宇宙用量産試作型VMA。 サテライト社がサンダーイーグルに代わる次期主力VMAの量産試作機として 開発した機体で、同社のVMA開発ノウハウが反映されている。 最大の特徴は肩部に装備された可動式ブースターユニットで、推力方向を自在 に変化させることが可能である。 そのため、従来機では難しいトリッキーかつ鋭角的な戦術機動が可能で高い 機動性と運動性を誇るが、操縦性は低く扱い辛い機体となっている。 基本的に空間戦闘用の機体だが、ブースターユニットの換装と多少の調整により 重力下戦闘にも対応可能。 武装も小型の携行用レールガンやレーザーソードなどが装備されており、VMA用 新型兵装のテストベッドとしての側面もある。 数機が生産されており、運用データ収集のために実戦部隊に配備されている 機体も存在する。 拡大アイコン制作:それも私だ様 データ サテライト社製VMAブレードピクシー ブレードピクシー, 多目的機動兵装, 1, 3 陸, 4, M, 4000, 150 特殊能力 シールド=汎用増加装甲 超回避Lv1.5=短距離噴射機動 15 110 3700, 140, 1100, 85 -BCA, GNC_BladePixy.bmp 12.7mm機銃, 900, 1, 1, +0, 20, -, -, CABA, -5, 射銃連L5 グレネードランチャー, 1300, 1, 2, -10, 6, -, -, BACA, +15, 実P 60mmハンドレールガン, 1500, 2, 4, +0, 10, 5, -, AABA, +10, 銃 試作型レーザーソード, 1600, 1, 1, +0, -, 20, -, AACA, +0, 武 メガスレイヤーHMS, 1800, 3, 5, +50, 4, -, -, ABCA, +10, 実H サテライト社製VMAブレードピクシー(重力下仕様) スカイアイ 概要 正式名称:サテライト・ホープ社製多目的機動兵装ブレードピクシー(重力下仕様) 兵器種別:多目的機動兵装(二脚) 製造年:西暦2133年~ 兵装: 12.7mm機銃 グレネードランチャー 80mmハンドレールガン 白兵戦用レーザーソード インターセプターHMS 備考: 地球連盟軍の地上戦用攻撃型VMA。 ブレードピクシーを地上戦用に改修した機体で、肩部ブースターユニットの 換装や宇宙用装備の排除などが行われている。 脚部にもスラスターユニットを増設した事によりホバー走行が可能で機体重量 の増加にも拘わらず高い機動性を維持している。 これらの装備はクラウドフェザーで得られた地上戦のノウハウもさることながら、 ダイナミクス社からの技術提供による部分も大きい。 また、武装もベース機の運用データをもとにブラッシュアップされており、総合的 な火力・継戦能力も向上している。 拡大アイコン制作:それも私だ様 データ サテライト社製VMAブレードピクシー(重力下仕様) ブレードピクシー, 多目的機動兵装, 1, 2 陸, 4, M, 4200, 150 特殊能力 シールド=汎用増加装甲 超回避Lv1.5=短距離噴射機動 10 110 ホバー移動 3600, 160, 1200, 85 -ABB, GNC_BladePixy(2).bmp 12.7mm機銃, 900, 1, 1, +0, 20, -, -, CABA, -5, 射銃連L5 グレネードランチャー, 1300, 1, 2, +0, 10, -, -, BACA, +20, 実連L2P 白兵戦用レーザーソード, 1600, 1, 1, +20, -, 15, -, AACA, +20, 武 80mmハンドレールガン, 1600, 2, 4, +0, 8, 5, -, AABA, +0, 銃 インターセプターHMS, 1800, 3, 5, +40, 5, -, -, AACD, +15, 実H アニメーション 多目的機動兵装 12.7mm機銃, バルカン グレネードランチャー, グレネード 1 試作型レーザーソード(準備), ビームソード レッド Beamsaber.wav 試作型レーザーソード(攻撃), ビームソード突撃 レッド 試作型レーザーソード(命中), @戦闘アニメ_振り上げ攻撃;@戦闘アニメ_なぎ払い攻撃;光振り上げ 中 レッド;光なぎ払い 中 レッド;@戦闘アニメ_斬撃攻撃;ビームソード レッド 白兵戦用レーザーソード(準備), ビームソード ブルー Beamsaber.wav 白兵戦用レーザーソード(攻撃), バルカン;ビームソード突撃 ブルー 白兵戦用レーザーソード(命中), バルカン;@戦闘アニメ_振り上げ攻撃;@戦闘アニメ_斬撃攻撃;光振り上げ 中 ブルー;ビームソード ブルー;連続爆発 60mmハンドレールガン, レールガン ブルー "Weapon\M_Rifle02.bmp" 36 80mmハンドレールガン, レールガン ブルー "Anime\M_Rifle04.bmp" 32 メガスレイヤーHMS(準備), Reload(5).wav メガスレイヤーHMS(攻撃), ロックオン;ホーミングミサイル メガスレイヤーHMS(命中), ホーミングミサイル インターセプターHMS(準備), Reload(5).wav インターセプターHMS(攻撃), ロックオン;ホーミングミサイル インターセプターHMS(命中), ホーミングミサイル 分身(短距離噴射機動), @戦闘アニメ_急降下攻撃 相手ユニットID;テレポート Jet.wav 短距離噴射機動 相手ユニットID シールド防御(汎用増加装甲), シールド防御 "Weapon\woh_Shield.bmp" 32 Reload.wav - 汎用増加装甲
https://w.atwiki.jp/mtm2022/pages/97.html
以下ちょっとした属性の説明。 天 〈光〉、 〈法〉 などを象徴する属性。 【信仰】 と 【幸運】 が高くなるため、治癒魔法などに適正がある。 冥 〈闇〉、 〈混沌〉 などを象徴する属性。 【知力】 と 【精神】 が高くなるので、攻撃魔法全般に適正がある。 地 〈大地〉、 〈安定〉 などを象徴する属性。 【筋力】 と 【精神】 が高くなるので、白兵戦に適正がある。 水 〈海〉、 〈調和〉 などを象徴する属性。 【精神】 を始めとして魔法に関係する能力値が高くなるため、魔法全般に適正がある。 火 〈炎〉、 〈破壊〉 などを象徴する属性。 【筋力】 が非常に高くなるため、白兵戦にのみ適正がある。 風 〈大気〉、 〈自由〉 などを象徴する属性。 【器用】 と 【敏捷】 が高くなるため、射撃戦に適正がある。 虚 〈虚空〉、 〈無〉 などを象徴する属性。 【敏捷】 と 【幸運】 が高くなるため、白兵戦に適正がある。 次に魔法の説明。魔法は基本的に自分の第一属性か第二属性のものしか使用できない。 ◆装備魔法 ウィザードの肉体や精神などを利用して、あらかじめ魔法のためのプラーナが循環する回路を敷設し、魔法の発動助け、 これまでのように長い詠唱や準備等をせずとも魔法を使用できるようにしたもの。常時魔法による負担が掛かるため、 装備魔法の量には限界がある。 装備魔法は各種別につきひとつまで装備できる。たとえば、種別:攻撃の場合、攻撃(-)と攻撃(天)はどちらか片方のみ装備できる。装備はできないが、所持はできるので複数所持はできる。装備魔法の入れ替えはマイナーアクション。 装備魔法には攻撃魔装、防御魔装、付与魔装の3つの種類がある。 攻撃魔装:装備することで魔法攻撃を行えるようになる。 防御魔装:装備することで防御力を上げることができる。 付与魔装:能力値や戦闘値を上げることができる。 以下装備魔法一覧。 攻撃魔装 防御魔装 付与魔装 ◆発動魔法 データごとに指定されたタイミングで使用する魔法。扱いとしては特殊能力が近い。 発動魔法の入れ替えはメジャーアクション。 発動魔法には攻撃魔法、治癒魔法、付与魔法、弱体魔法、汎用魔法の5種類がある。 攻撃魔法:魔装として装備することなく、直接使用できる攻撃魔法。 治癒魔法:ダメージやそれに伴うバッドステータスを回復させる魔法。 付与魔法:他人に有効な効果を与えるための魔法。 弱体魔法:他人に不利な影響を与えるための魔法。 汎用魔法:さまざまな効果を持った魔法。ぶっちゃけ、その他。 以下発動魔法一覧。 攻撃魔法 治癒魔法 付与魔法 弱体魔法 汎用魔法
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/143.html
中公新書256 名嘉正八郎・谷川健一編 沖縄の証言(上) 庶民が語る戦争体験 中央公論社刊 昭和46年7月25日初版 昭和57年2月1日5版 長い文章なので、章立てと小見出しを転載時に付加しました(以下※印)。そのキャプション語彙も私の責任です。この民俗学者である谷川健一氏の解説は、大書「沖縄県史」を紐解くガイドとして極めて有効だと思われるので転載しました。なぜなら、200ページ余りの新書版には収めきれない証言・戦史を反映しようと、熱を込めて書かれた一文だからです。 by pippo 証言の意味するもの(解説)前半・・・谷川健一(一 沈黙という岩盤)※ (二 沖縄の戦況)※(サイパンから沖縄へ)※ (防衛隊と現地徴兵)※ (離島の悲劇)※ (本島北谷上陸)※ (北部戦線、伊江島民の犠牲)※ (本島、首里攻防と夥しい犠牲)※ (南部島尻、住民の犠牲)※ (米軍の攻撃目標)※ (日本軍の撤退)※ (海軍部隊の最期)※ (南部での陸軍最後の死闘)※ (命を奉げた住民の協力と、日本軍の冷酷な仕打ち)※ (三 沖縄住民にとって友軍とは)※ (四 戦争とはなにか、日本人とはなにか)※ 証言の意味するもの(解説)前半・・・谷川健一 (一 沈黙という岩盤)※ いまを去る二十六年前、沖縄の天地は凄惨な地獄と化した。本土の日本人が空襲に逃げまどい、疎開の不便な生活になやんでいるときに、沖縄はその大地の上に敵の兵士と戦車を迎え、間断のない艦砲射撃の下にさらされながら数ヵ月を送った。この間の記録は数多くの沖縄戦記としてすでに発表され、私たちの胸をゆさぶってきた。そして沖縄本島の中南部に林立する各県の慰霊塔、これらは、それがそもそもの目的でないにせよ、私たちに一時の罪責感をあたえて、そして解放するというカタルシスの役を果たしていることも否めない事実である。涙は人間を浄化し、人間の苦悩をやわらげる作用をもつ。戦後二十六年、いままさに沖縄が本土に復帰しようとする寸前、沖縄の戦いの記億は、沖縄戦記や慰霊塔を残したまま、過去に押しながされようとしているかにみえる。本土復帰によって、沖縄の戦後は終わった、という人が出てくるであろう。私たちは沖縄の大地に聞くほかない。それははたして真実であろうかと。 沖縄は、昭和47年(1972)5月15日に日本領に復帰しましたので、この文章はそのおよそ一年前に書かれたようです。 「今を去る六十ニ年前」と置き換えてこの文章は成り立つだろうか? 「沈黙の岩盤」は厚い。読谷村チビリガマの集団自決が語られるようになるまでに38年も掛かった、という。 これまで軍人や知識人が沖縄戦について発言しても、沖縄の庶民だけは沈黙した。私がこの庶民の沈黙の岩盤につきあたり、その大きさがわかったのは、沖縄史料編集所が『沖縄県史』に収録する予定の沖縄住民の非戦闘員の聞書きの記録を読ませてもらったときである。私は皮肉にもこの聞書きにふれてはじめて、沖縄の民衆の言語に絶する苦難、そして戦後二十何年間をつらぬいたその苦難を語るまいとする沈黙の意味を、やっと諒解したのである。 傍点箇所を太字に>pippo 苦しみが大きすぎるとき、人は告白する衝動を失い、それにふれることを極度に嫌悪する。沖縄の民衆が過ごした戦後は、まさしくそのようなものであった。極限状況まで追いつめられた庶 178 民にとつて、その苦難はあまりに大きすぎて、それを語ることを欲しなかった。しかし、それは沖縄の庶民の心底にまるで鋼のように重く、冷たく沈んでいたのだ・そしてや一と戦後二十何年目かに、彼らの寡黙な心情は、戦争体験を語ろうとするまでに余裕を持ってきた。とすれぼ、沖縄の戦後はこの沖縄の民衆のかかえてきた沈黙の岩盤にささえられていたといっても、けっして過言ではない。これこそ、戦後の沖縄の思想の原点であることを私は確認した。沖縄の戦後は、この無告の民の沈黙から出発し、沈黙の岩盤にささえられてこんにちまでやってきたのだ。沖縄の戦後社会をいろどるさまざまな現象や事件の鍵はここにある。 沖縄の悲劇はサンフランシスコ条約によつてもたらされたか。断じてそんなことはない。すでに沖縄戦からはじまつていたのだ。日本の一部でありながら、このような言語に絶する苦難が、沖縄の民衆を唖にした。しかし彼らは、その体験を忘れていたのではなかった。日本とアメリカの双方への痛烈な不信を生むにいたつた沖縄の戦いこそが、沖縄の戦後思想の原点である。それは強固な沈黙の核を秘めてはいるが、すべてはここから出発する。沖縄の民衆がその重い口をやっと開いて沈黙を破りはじめたこんにちこそ、沖縄の本土なみ戦後が始まるといえる。この沖縄戦の民衆の証言は、その意味で私たちに戦後思想、いや戦後史そのものの書きかえを迫るものをもっていることはうたがうべくもない。 上記赤太字は>pippo (二 沖縄の戦況)※ ここにおいて、私たちは本書の背景となる沖縄の戦況をしばらく追ってみたい。 179 (サイパンから沖縄へ)※ 昭和十九年七月七日、サイパン島の日本軍の守備兵は全減した。そしてその月の二十一日には、米軍はグァム島に上陸を開始した。マリアナ諸島には、数万の沖縄県民が出稼ぎにいっている。その中には自決して果てたものも少なくない。沖縄の人たちは地理的な近さからだけではなく、血のつながりの近さから、サイバン島やグァム島の運命がやがて自分たちの島にもふりかかるかも知れないという不安を強くもった。 その不安は、七月末までに沖縄県民を本土と台湾へ緊急疎開させよという日本政府の命令が発令されるにいたって、いよいよ確実となった。住みなれた沖縄の島々をあとにして、台湾へ二万、本土に約六万の疎開がおこなわれた。その中には、鹿児島の南、奄美(あまみ)の北のとから列島の悪石島付近で、アメリカの潜水艦に撃沈された対馬丸のような悲劇もある。対馬丸は那覇市内の国民学校の児童と一般疎開者合わせて一、六六一名を乗せて、八月二十一日に那覇港を出発した。あくる日、機関に故障を起こして一隻だけが船団からおくれた。そこを敵潜水艦にねらわれたのである。助かったものはわずかに一七七名にすぎなかった。遭難者の半数の七六六名が国民学校の児童であった。児童は五九名しか生き残らなかった。 この衝撃がおさまらない十月十日、米軍による沖縄への最初の攻撃がおこなわれた。しかもそれは決定的な一打であった。六万五干の人口をもつ那覇市の主要部分は、その九割が灰燼に帰した。読谷(よみたん)、嘉手納(かでな)、伊江(いえ)島、那覇の各飛行場、沖縄本島の港湾施設や船舶も破壊された。そして県民の一ヵ月分にあたる米が焼けた。軍需品の損害もおびただしく、長勇ちよういさむ参謀長は進退伺いを 180 出したほどである。それからざっと一月足らず、十一月四日には沖縄第三十二軍の主力を構成する第九師団の台湾転出が大本営から通達された。当時沖縄本島方面の戦闘を受けもつ第三十二軍は、第九師団のほか、第二十四師団、第六十二師団、独立混成第四十四旅団、それに軍砲兵隊の合計六万から成り立っていた。そのほか海軍兵力一万があった。このうち一個師団をひき抜くというのだから、沖縄の守りが手薄になるどころか、がたがたになるのは目に見えている。 この措置に現地沖縄では軍民ともに憤激し絶望した。あとで大本営がその補充をこころみようとしたときは、敵の潜水艦の跳梁(ちょうりょう)がはなはだしく、兵力の輸送は困難で実行に移されなかった。いきおい沖縄の守備軍も、敵の上陸地点と想定される場所に主力を結集して、決戦をいどむ作戦を放棄しないわけにはゆかなかった。そして、このことが米軍の沖縄作戦をいもじるLく容易にしたことは、否定できない。 (防衛隊と現地徴兵)※ 第九師団が転出したあとの人員不足を、日本軍は地元の沖縄人で埋めようとした。防衛隊は最初、飛行場の建設に参加させる目的で、一九四四年六月に組織された。一九四五年一月以降、十七歳以上四十五歳までの沖縄人で、引っぱられて防衛隊にはいったものはおよそ一万七千名をかぞえた。 沖縄の民間人が組織した防衛隊の任務は、主として弾薬や糧秣の運搬に従事する仕事で、苦力(クーリー)都隊であった。 181 そのほかに日本軍は多数の沖縄人を現地徴兵し、召集した。召集といっても、体(てい)のよい狩り出しで、米軍上陸以後の一九四五年の四月、五月になると口頭で召集令が伝達された。実際に第三十二軍に加わって戦闘に従事した沖縄の人たちの数はわからないが、おそらく日本軍勢力の三分の一を占めていたのではなかろうか、と推論する向きもある。米軍の沖縄進攻開始当時、第三十二軍の兵力は十万、その中に二万の防衛隊とかず知れないほどの現地召集の沖縄の人たちが含まれていた。陸軍自体の全兵力は七万七千、そのうち歩兵が三万九千、特別部隊、砲兵隊その他のサービス部隊が三万八千。そのサービス部隊に沖縄の人たちは大量に組み込まれていたのだったろう。 (離島の悲劇)※ 米軍は沖縄島上陸にそなえて、一九四五年の三月中旬から飛行場と飛行機を使用不能にする目的で、日本本土の各飛行場を急襲した。また米軍の艦艇は沖縄近海を掃海し、艦砲射撃を加えた。三月二十六日の朝、米軍は伊江島か沖縄本島に上陸するという日本軍の予想を裏切って、まず慶良間(けらま)諸島の攻略にとりかかった。阿嘉(あか)島、慶留間(げるま)島、外地(ほかじ)島、座間味(ざまみ)島、屋嘉比(やかび)島などを占領し、あくる二十七日に渡嘉敷(とかしき)島に上陸した。米軍発表によると、慶良間諸島では日本軍は五三〇名が戦死し、二二名が捕虜となった。米軍は三一名の戦死者と八一名の負傷者を出したにすぎなかった。 慶良間諸島の地図1、慶良間諸島の地図2 慶良間諸島の悲劇はむしろ住民のあいだに起こった。慶留間島では、親は縄や手でわが子をしめ殺し、そのあとを追った。その数は約四〇名。座間味島では、米軍が上陸するとともに、内川(うちかわ) 182 山壕内で野村村長はじめ、吏員、家族、村民多数が手投弾や劇薬で一人の未遂者もなく最期をとげた。山頂近くに結集していた住民は薬で死にきれず、棒で頭をたたき割って最期をとげ、ある者は生まれて二、三ヵ月の赤子を乳房で窒息させ、子供を一人一人のどを切ってゆく親、首をくくる者、銃弾で倒れる者、手榴弾を使う者、と、さまざまな方法で自決するという悲惨きわまりないさまであった。自決者および、戦火に倒れた島民の数は三五八名に達した。 渡嘉敷島の場合は、谷底に追いこまれた住民たちは古波蔵(こはぐら)村長の訣別の言蒙終わると、手榴弾で自決していった。死ねない者はおたがいに棍棒でなぐり合い、剃刀(かみそり)で頸を切り、子の首をしめ、鍬(くわ)で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃砲弾が炸裂した。思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者四〇〇余名、戦死者三〇余名。 こうして慶良間諸島では慶留間、座間味、渡嘉敷の島々で惨劇がおこなわれた。 (本島北谷上陸)※ 一九四五年四月一日、復活祭日曜日の明け方、一、三〇〇隻の米軍の艦艇が勢ぞろいした。五時三十分、戦艦一〇隻、巡洋艦九隻、駆逐艦二三隻、そして一七七隻の砲艦がいっせいに砲口を開いて、総攻撃直前の掩護射撃を開始した。八時三十分、上陸用舟艇は比謝(ひじゃ)川の川口を中心にした北谷(ちゃたん)村の海岸線にたどりつき、夕方まで六万以上の兵が上陸した。すでに米軍の斥侯はその数日前か、前日に上陸して慎察していたと思われるふしがあるが、米軍が不思議に思ったのは、日本軍が低抗らしい抵抗を示さないことであった。日本軍の砲兵陣地からの妨害は、ほとんどなかった。地雷に出くわすこともなかった。 183 米軍はその日のうちに桃原(とうばる)の線まで進出した。地上の低抗は少なかったが、日本の特攻機は果敢な攻撃をこころみた。米軍は島袋(しまぶく)を突破し、中城(なかぐすく)湾を海岸ぞいに南下して、三日には東海岸の久場崎(くばざき)を占領した。四月七日、陸軍の戦闘機部隊が読谷飛行場に、九日には嘉手納飛行場に着陸するというすぱやさだった。 米軍が北谷村海岸に上陸したとき、日本車の第一線部隊の中軸は中城村喜舎場(きしゃば)にあった。中城村の北方(戦後は、米軍基地のため分断され、北方は分村して北中城村となった。)は、米軍の進撃がはやくて日本軍の後退がはやかったために、米軍上陸後わずか二、三日で米軍に捕虜にされている人々が多いが、現在の中城村は南よりで、米軍の進撃を後ろにして南へ落ちのびる時間の余裕があった。そのために中城村北方(現在の北中城村)は、一般庶民の戦火による生命の犠牲がいくぶん少なかったが、中城村は南部の市町村と異なることなく犠牲が多かった。 四月五日まで北谷村砂辺(すなべ)海岸の金網内に入れられていた一、五〇〇名余の捕虜の住民は、比嘉(ひが)と島袋の収容所にトラックではこばれた。 (北部戦線、伊江島民の犠牲)※ 北上した米軍は石川(いしかわ)地峡を通り金武(きん)の線に到達した。そして八重(やえ)岳にたてこもる日本軍を攻撃、四月十三日には沖縄北端の辺戸(へど)岬に着いた。四月十五日には八重岳を制圧し、あくる十六日には伊江島に上陸した。伊江島は平べったく丸い島で、島の中央には沖縄本島から遠望できる城山(ぐすくやま)が突出している。米軍の攻略の目標は飛行場を確保し、利用することであった。それにたいして日本軍は、城山の陣地を中心に強固な防備態勢を敷いて米軍をよせつけなかった。猛烈な艦砲射撃 184 ののち上陸した米軍の攻撃を、日本軍の地雷や夜襲が阻止した。 日本軍には、多数の伊江島の村民がまじって戦った。女たちも例外でなかった。頭髪を切り、戦闘帽をかむり、男装して爆雷を持って飛び出し、竹槍をひっさげて切込みに加わり、みずから死ぬと知りたがら米軍陣地に体あたりした。その中には、乳のみ児を背負った掃人もまじっていた。 伊江島での日本軍の低抗が頑強をきわめたことは、米国陸軍省編の沖縄戦記『日米最後の戦闘』("Okinawa", The Last Battle )の認めるところであるが、六日間にわたるこの戦闘で米軍は一、一二〇名の死傷者を出した。内訳は戦死者一七二、負傷者九〇二、行方不明四六。日本軍は四、七〇六名の戦死者と一四九名の捕虜を出した。このうち軍服を支給された約一、五〇〇名の民間人が含まれていた。 当時本島に疎開した三、○○○名をのぞけぱ、伊江島に残留していた同島の住民数は約四、○○○名と推定されるが、そのうち少なくとも一、五〇〇名は死んだと考えられる。というのも伊江島民で米軍の捕虜となり、慶良間諸島の渡嘉敷島、慶留間島に移されたものはおよそ二、一〇〇名余にすぎないからである。 (本島、首里攻防と夥しい犠牲)※ 眼をふたたび本島の戦闘に転ずると、米軍の進撃は四月八日以来ストップしていた。牧港(まきみなと)から宜野湾(ぎのわん)市の嘉数(かかず)、東は中城村和宇慶(わうけ)、西原(にしはら)村上原(うえはら)にのびる戦線を日本軍は死守して一歩もゆずらなかった。とくに嘉数の戦線は壮烈をきわめた。この前線を後退させるのに、米軍はなんと半月 185 かかった。そこはいくつもの丘陵が重なり合い、天然の防塁となっているとともに、高地を守備する日本軍は攻めのぽる米軍を狙い打ちすることができる。嘉数戦線では、身体を地表にさらすことは死か負傷を意味していた。 日本軍は、蛸壷(たこつぼ)と急造爆雷をたくみに使用した。米軍は攻めあぐみ、日本軍の砲火の前に立ちすくんだ。日に一メートルしか前進できないこともあった。米軍が毒ガスを使用したのはこの嘉数においてであった。その犠牲者は壕にひそむ非戦闘員の中からも出た。 しかし、日本軍の死傷もはなはだしかった。そのうえ兵力の一部は南部に備えておかねばならなかった。米軍は島尻(しまじり)の港川(みなとがわ)に上陸するとつねに見せかけて日本軍を牽制、その結果、日本軍は全兵力を嘉数戦線に投入することはできなかった。四月二十四日の明け方、日本軍は猛烈な砲火を米軍陣地にあびせるかたわら、深い霧を利用して、首里(しゅり)防衛の第一線から後退しはじめた。しかし日本軍は、仲間(なかま)、前田(まえだ)、幸地(こうち)の線でふみとどまった。この第二線を守らねぱ、首里は危険にさらされる。そこで両軍死力をつくしての攻防戦が展開された。 Yahoo地図システム 前田丘陵四日間の戦閾は、「ありったけの地獄を一つにまとめた」といわれるほどで、嘉数に劣らずものすごいものであった。「手投弾は飛びかい、洞窟や蛸壷壕には弾薬が投げこまれ、夜は夜で双方とも敵のいつとも知れぬ夜襲におびえていた」と『日米最後の戦闘』の一節は伝える。 日本軍はこの戦闘に破れることをきわめて憂慮し、反攻に転ずる計画を立てた。五月四日、総反攻が実行されたが、結果は日本軍の無惨な敗北に終わった。約五、○○○名の戦死者を出し、 186 その戦力ぽ半分以下に低下した。これにたいして米軍の損害は約一、○○○名。日本軍の士気はおとろえ、重苦しい空気が支配した。沖縄住民の被害もおそるべきものがあった。 沖縄戦中の最大の激戦地の一つであった宜野湾市の嘉数では半数以上が死んだ。浦添(うらそえ)村の前田では、人口が三分の一に減った。西原村の幸地では戦前九六〇名の人口が戦後三三〇名に減った。一四〇戸のうち五三戸が一家全減。おなじ西原村の桃原では、人口四〇〇余名のうち残存者九四名。七六戸のうち一家全滅は四二戸。桃原の近くの西原村字我謝(がじゃ)では一、○○○名のうち四五〇名しか残らない。やはり西原村の字池田(いけだ)では、四〇五名の戦前人口が二五五名に減少した。 (南部島尻、住民の犠牲)※ 沖縄戦が住民をまきこんだ戦争であったことがこれで理解される。この数字の比率は、沖縄戦の破局の舞台であった南部の島尻においても同様である。南部の被害についていえぽ、喜屋武(きやん)岬に近い旧真壁(まかべ)村の字真栄平(まえひら)部落では、沖縄戦直前の約九〇〇名が、戦後は三五六名に減った。総戸数一八七戸のうち、一家全減が五八戸、一名生存二三戸、両親なし二一戸、父なし五二戸である。 おなじく旧真壁村の名城(なしろ)では住民八○○名のうち、その三分の一が死んだ。 旧高嶺(たかみね)村の字国吉(くによし)では、戦争直前の人口が四七〇名前後、そのうち戦死者が二一〇名以上。ここは、米軍のバックナー中将が戦死した場所の近くの部落であるが、捕虜になった住民のうち男子は全部銃殺された。 旧真壁村字伊敷(いしき)は、一三〇名の人口のうち五五名が死んだ。同村の宇江城(うえぐすく)は、一六三名の人口 187 のうち生き残りは七〇名。同村の糸洲(いとす)では人口二五〇名のうち半数以上が死んだ。 旧喜屋武村の字上里(うえざと)では、一二〇名前後の住民の三分の一以上が死んだ。同村の字束辺名(つかひな)では、人口二三〇名あまりが一五六名となった。 旧摩文仁(まぶに)村の大渡(おおど)では、人口二五〇~三〇〇名のうち約半数が死んだ。同村の米須では、一、五〇〇名のうち生き残りはわずか三三〇名。一家全減は全戸数の四七パーセント。 旧兼城(かねぐすく)の照屋(てるや)では、人口八九六名のうち、死んだもの三七〇名。 旧高嶺村与座(よざ)では九〇〇名近い人口のうち三一〇名しか残らない。しかも一七、八歳から五〇歳ぐらいのあいだの男は、たった六名しか生きていなかった。そして戦前戸数一五四戸にたいして、一家全滅は四五戸、つまり三分の一は、家族全部が地上から消え失せたのである。 東風平(こちんだ)村の小城(こぐすく)では、戦前人口が七四〇~五〇名。それが戦後の帰郷者をふくめて三〇〇名余。すなわち、戦死者は四四〇名以上である。 (米軍の攻撃目標)※ 日本軍の最後の首里防衛線は安里(あさと)の北から大名(おおな)、沢岻(たくし)を通り、石嶺(いしみね)の丘陵地帯におよんだ。東の方は運玉森(うんたまむい)の北の桃原や我謝にのびていた。五月十一日に米軍は総攻撃を開始し、十日間の激戦が展開された。米軍は攻撃目標に自分たちの名前をつげた。首里の東側の弁(べん)ヵ岳はチョコレートでつくったドロップのようにとがっていた。また那覇郊外の安里の北の高地はシュガー・ローフ(一山の砂糖)と呼ぱれた。ここを米軍が奪取すれぼ首里攻略の鍵を手に入れたことになるのだった。沖縄にいる米軍の将兵に向けて東京放送は英語で話しかけてきた。おそらく東京ローズとよぼれる有名な女性の声であったろうか。 188 「シュガー・ローフ・・・・・チョコレート・ドロップ・・・・・ストロベリー山・・・・・まあなんというすばらしい名前でしょう。白いピケットを張りめぐらした中に、キャンディの家が見えます。木々には、キャンディのいっぱいはいった罐がぶら下がり、赤や白い筋が陽に輝いてキラキラ映えています。でもみなさん、この赤い実はアメリカ人の血の色なのです。こういうすばらしい名前の山こそ、じつは恐ろしい肉弾戦が行なわれるところなのです。もちろんいちぱん悲惨なところを、きれいな名前をつけて、こわがらなくてもよいようにするのは、ごくあたりまえのことでございましょう。シュガー・ローフがどうして何回となく攻撃の手を変えなけれぱならなかったか、よくごぞんじでいらっしゃいましょうね。それはまったくダンテの“地獄”さながらだからです。そう、砂糖の山・・・・・チョコレート・ドロップ・・・・・いちごの山・・・・・みんなきれいな名前ですわね。ただそこにいったことのある人は、そこがどういうところかごぞんじなんですけれども・・・・・」(『日米最後の戦闘』) 事実、米第六海兵師団はシュガー・ローフを占領するまでの十日間の戦闘で二、六六二名の死傷者と一、二八九名の戦闘疲労症(精神病)を出している。 運玉森(うんたまむい)は米軍によって「百万ドルの山」と名づけられていた。この運玉森はそれだけの値打があった。その東側を制圧することによって、那覇と与那原(よなばる)を結ぶ道路が確保できて、首里攻撃は 189 格段に容易になるからである。米軍は五月二十一日に、運玉森の東側の丘陵斜面を確保し、首里防禦陣の突破口を開くことに成功した。 (日本軍の撤退)※ ここにおいて日本軍首脳は一大決断に追い込まれた。米軍が運玉森からいっきょに首里南方の津嘉山(つかざん)付近に押し寄せたら、全陣地の組織がくずれることになる。三月下旬の日本陸軍の総兵力は約八六、四〇〇名であった。その後現地召集の沖縄人をも加えているが、それがいまや生存の将兵は五万内外に減っており、しかも精鋭はほとんど死傷し、歩兵火器の大部分は消耗している。この五万の兵力をもって首里の外郭をささえることはむずかしく、直径一キロ内外の狭い地域に配置すれぼ、米軍の物量攻撃の好餌となるだけの話である。といって逃れるところは、南部の知念(ちねん)半島か喜屋武岬しかなかった。知念半島は洞穴陣地が少なく、また米軍がすぐ近くの与那原に迫っているので、そこへの撤退案は捨てられた。 第三十二軍牛島司令官、長勇参謀長、八原(やはら)高級参謀などの軍首脳は、喜屋武岬に後退する案を選んだ。これにたいして島田沖縄県知事は、非戦闘員を知念半島に移し、そこを無防備地帯として米軍に通告することを強調したが、軍首脳はその主張を聞き入れなかったと伝えられる。もしこの案がいれられたら、沖縄戦の最後の様相はすこぶるちがったものになっていただろう。 事実、沖縄の現地軍は五月十六日に大本営に打電していた。 「軍は状況を判断し総力をあげ北面より首里東西の線に最後の予備を投入しつつ敢闘中たるも現兵力の保持逐次至難となり、まさに組織的戦略持久は終焉せんとす・・・・」 190 この電文の示すとおり、日本軍の組織的低抗は首里防衛戦で終わったのである。 米軍は嘉数の首里防禦の第一戦線を突破するのに、四月八日から二十三日まで半月を費やし、その嘉数から二キロ南の前田高地に敷かれた防衛第二戦線を突破するのに、五月五日までの十二日を要した。そして、前田から二キロ南の石嶺高地に設けられた第三番目の防禦陣を突破して首里前面に迫るのに、五月二十日までの半月余を費やした。つまり、四キロ余前進するのに一月半ちかくをかけねばならなかった。このことだけを考えても、それが文字どおり死闘であったことがわかる。一日にして百メートル足らずの前進距離に埋まった死体の数を想像せよ。 しかしいったん、首里防衛を放棄した以上は、そこにどのような激闘がくり返されたとしても、敗残の兵たちがその終末を引きのばすための戦いにすぎなかった。野戦病院に残された兵隊はおよそ一万であったが、そのうち動けない重傷の兵士は手投弾、爆薬、薬品で自決をとげた。五月末、おりから降りつづく雨で泥濘と化した道を、五万の日本軍が南部へと撤退をはじめていた。しかし、島尻南部では三万に減っていた。一〇キロの道のりのあいだに二万が失われたことになる。体力の衰弱や負傷のため歩行できなくなったり、また米軍の艦砲射撃の餌食にたったものも多かった。 (海軍部隊の最期)※ 一方、小禄(おろく)にいた一万の海軍部隊は、その中核になる精鋭の二、五〇〇名を首里戦線に送って陸軍を助けたが、その残りは小禄を死に場所とさだめて、小禄半島に上陸した米軍を迎え撃った。しかし、圧倒的な敵の前にはどうしようもなく、大田実少将は司令部壕内で六月十三日に自決し 191 た。大田司令官は六日夜、海軍次官に次のような電報を打っている。それをとくに左にかかげるのは、沖縄で戦った日本の軍人で、沖縄県民にたいする心づかいを示す唯一の文書の例だからである。 「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、三十二軍司令部叉通信の余力なしと認めらるるに付、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、之に代って緊急御通知申上ぐ。沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては、殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。然れども本職の知れる範囲に於ては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わずか)に身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃下・・・・風雨に曝(さら)されつつ乏しき生活に甘じありたり。而(しか)も若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護掃炊事婦はもとより砲弾運び挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発し身寄(みより)無き重傷者を助げて・・・・真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず、更に軍に於て作戦の大転換あるや自給自足夜の中に逢(はるか)に遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり。之を要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫勤労奉仕物資節約を強要せられて、御奉公の192・・・・・を胸に抱きつつ遂に・・・・・ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形・・・・・一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支うるのみなりと謂う。沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」(原文は片仮名まじり、旧仮名遣い文。句読点は引用者による。「・・・・・」は、原文の不明箇所。) 切々たるこの訴えを、戦後の本土の政治家たち、いや日本国民全体がどのように受けとめているか。いまなお残る小禄の地下壕にむなしく谺(こだま)するのみであるか。 (南部での陸軍最後の死闘)※ 一方島尻に後退した陸軍部隊は、司令部のある摩文仁の丘の真北にあたる八重瀬(やえす岳)と与座を中心にして、西は国吉から真栄里(まえさと)におよび、東は具志頭(ぐしちゃん)にわたる抵抗線を敷いた。米軍は五月末日から六月四日までわずか五日間で南部地区の半分を制圧した。六月五日から日本軍の抵抗線に攻撃を開始し、日本軍の執拗な防禦を十日あまりかかって排除した。八重瀬岳、ついで与座岳が占領され、国吉台地と真栄里も攻撃を受けるにおよんで、最後の望みは絶たれた。 牛島軍司令官は六月十八日に訣別の電報を大本営に打った。その日にバックナー米軍司令官は高嶺村真栄里で戦死をとげた。十九日も米軍の猛攻はつづけられ、摩文仁の丘まで迫ってきた。西側は米須まで進出した。新垣(あらかき)と真栄平は最後まで戦闘が激しく展開された。六月二十二日、摩文仁の軍司令部洞窟が米軍に急襲された。六月二十三日午前四時、牛島司令官と長勇参謀長は自決して終わった。 一万五千名から一万八千名の日本兵が沖縄の南部海岸の断崖まで追いつめられた。日本軍の損 194 害は六月初めから日に一千名だったのが、六月十九日に二千名、二十日には三千名、二十一日には四千名以上となった。そして、六月二十三日から月末までの米軍の掃討戦で、九千名の戦死傷者を出した。米軍の推定によると、沖縄戦開始以来五月末まで約七万名の日本兵が死んでおり、それ以降四万名近くが死んでいる。 沖縄南部の戦いは、死か捕虜かの二老択一をせまられたものであった。ここにおいて日本軍は一刻もながく生きのびるために、沖縄の住民を犠牲にすることをあえて辞さなかった。それは死を前にLたエゴイズムといえるのかもしれない。しかし間題は、日本軍の沖縄住民にたいする不信の念が前提となっていること、そして武器を持った人間が、非戦闘員にたいして脅迫をもってのぞんだことである。沖縄の住民は好きこのんで自分の住んでいる土地を戦場としたのではなかった。 (命を奉げた住民の協力と、日本軍の冷酷な仕打ち)※ 中部の住民十数万名が戦火に追われて南部をめざしたのは、沖縄県当局と日本軍の指示によるものであったが、しかしその結果、沖縄の南部には三浦半島とひとしい地域に三十万名の沖縄住民と日本軍がひしめきあうことになった。これにたいして米軍は、海上から艦砲射撃をもってこたえ、地上は火焔放射器(かえんほうしゃき)で壕を焼きはらった。喜屋武岬にいたる原野のカヤやススキの上に空からガソリンの雨を降らし、その上に油脂焼夷弾(ゆししょういだん)を投げ落として、その中にひそむおびただしい兵士と住民を殺した。米軍の使用した火器は、艦砲、榴散弾(りゅうさんだん)、黄燐弾(おうりんだん)、迫撃砲、焼夷弾、毒ガス弾、催涙弾、火焔放射器、投下爆弾などである。米軍の上陸地点である北谷村の海岸には艦砲が一坪 194 に五発落ちたといわれ、また南部ではその総面積に一坪あたり二十発ぐらいの弾丸が落ちたといわれている。 こうして、当時四十七万ていどの沖縄本島の人口のうち二十万近くが死んだ。生き残ったのは、沖縄本島ならびにその属島を合わせて三十万名である。住民の三分の一を死なせた戦いの意味は如何。この問いはいまも鮮烈な血の色のかがやきと、もっとも鋭くもっとも重厚な意味を失っていない。 それは、死者の数が莫大であるというだげではない。沖縄住民が男も女も老いも若きも総力をあげて日本軍に協力しようとしたのにたいして、日本軍は沖縄の住民に背筋の凍るような冷酷な仕打ちをもって報いたという事実をどう考えるか、という問題である。そもそも、中部の避難民に向かって南都の島尻地区に行けと指示することじたいが、軍人と民間人をいっしょにして敵の攻撃をできるだげそらそうとする目的からなされたのではないかという疑いがある。 その疑問を一笑できない理由がある。というのも米軍は、首里をめぐっての攻防戦がまだ終わっていないとき、空から前線後方地域にビラをまき、沖縄人に白布を着て歩いたら空襲や爆撃されないでもすむと知らせていた。日本軍はこのことを利用し、白布をつけ民間人に化けて首里から南へと何千名となく大移動をした。これはまもたく米軍が空から発見するところとなり、攻撃のよい目標となった。 日本軍は沖縄の住民を戦火にまきこむことで存命をはかったのではないか、という現地の痛切 195 な指弾は措(お)くとして、すくなくとも牛島司令官や長参謀長の自決が、沖縄の民衆にとってなんの意味もないことは断言できるのである。いやしくも最高司令官たるものが、軍参謀から「摩文仁の洞窟は軍の戦闘司令所としての機能を発揮せず」と指摘されたにもかかわらず、おのれの死に場所をえらぶために、全軍を指揮する場所としてはもっとも不適当な摩文仁の丘をさして落ちていった。鹿児島出身の牛島司令官が、摩文仁を西南戦争のときの城山になぞらえていたことは、自決の直前、長参謀長と、西郷隆盛の城山の話などをしあったという事実から推察できる。牛島司令官が高潔で温容な人格の持主であったことを否定しないが、おのれの最後をいさぎよくすることと、住民の生命ならびに生活の損失を最小限にとどめるための心づかいとはおのずから別なのである。 (三 沖縄住民にとって友軍とは)※ 証言の意味するもの・・・谷川健一(続) (四 戦争とはなにか、日本人とはなにか)※ 証言の意味するもの・・・谷川健一(続) 目次へ | 後半へ